丸腰とらのふわふわ日記

生活のこと、遊びのこと、勉強のこと。

思春期の痛みは「夜明け前の悪夢」 9月1日問題に寄せて

 早いもので、9月になりましたね。梅雨の頃は毎日溶けそうなくらいに暑くて初夏でこれなら夏本番の暑さはどれほど恐ろしいのやらと危惧したものですが、予想に反して涼しい夏でした。特に夏真っ盛りの8月なんか、関東以東は初っ端から3週間ぶっ続けでお日様にお目にかかれないという霧の都ロンドンもびっくりな曇りぶりで、真夏というよりむしろ春の初め頃のあの少し肌寒くてぐずついた天気を思わせる気候にあたふたしているうちに秋が来た、という感じです。夏どこ行ったんだ本当に。


 さて、夏の終わりといえば長い夏休みの終わり。おそらくだいたいの小学校~高校で新学期が始まった頃ではないでしょうか。大学生の方は、制服姿の生徒たちを横目に、こっちはまだ休みを半分残しているとほくそ笑んでいることでしょう。この時期最近とみに話題になっているのは「9月1日問題」ですね。夏休みが明けて新学期が始まる9月1日(前後の時期)が、子供の自殺が1年で最も多いことから名づけられた問題です。何らかの理由で学校が辛い子供たちが、その辛い場所へ再び戻っていかなければいけない絶望感から、自ら命を絶ってしまうのです。「最後の手段」を選ばなかったにせよ、そういえば中学1年の夏休み明けしばらく学校がどうにも居心地悪くてしんどかった時期があったなあと思いだします。入学したての頃から思春期特有の人間関係のいざこざに巻き込まれて、クラスで孤立してしまってたんですね、当時。で、夏休みが終わっても相変わらず馴染めないままだったという。あの時は座って授業受けてるだけで何故か涙が浮かんできたりしてたので、相当参ってたんだろうなと思います。今思えばその状況を打開するチャンスはいくらでもあったのですが、当時は「クラスに居場所がない」という、中学生にとっては全世界に否定されたにも等しい状況にただただ打ちひしがれているしかできませんでした。そうです。この「全世界に」というところこそが重要なのです。クラスあるいは学校に居場所をなくしたことで深く傷つき思い悩み、時には死をも選んでしまう子供の思考、行動は、大人からすれば、「何もそこまで悩むほどのことでも、ましてや死ぬほどのことでも無かろうに」と不思議に映るかもしれませんが、子供というものは社会的に無力であるがゆえに世界が狭く、生活の大半を占めてくる学校は、冗談抜きに「世界の全て」なのです。あまりにも少ない経験の蓄積から判断し、把握しうる全てなのです。実際私もそうでした。幸いにも、所属していた文化系部活という貴重な居場所に恵まれたのですが、1日の8割くらいを過ごすのがクラスであることに変わりはありませんので、毎日毎日クラスで朝から夕方の放課後までクラスの人間関係をうまくやっていけない自分を再確認させられて、自分が人生の落伍者のように感じられたものです。「どうせどこへ行っても、なにをやってもうまくいかないに違いない」という呪いじみた確信に取り憑かれ、10年近く付きまとわれました。この呪いが少しづつ解け始めたのも、つい最近のことです。それは、次に示すような考え方ができるようになったからです。

 

 人生を80年として、1日の流れになぞらえた例えを知っているでしょうか。おぎゃあと産まれて午前零時。若い盛りの朝~午前。そして日が暮れ晩年へ。この図式に当てはめると、思春期真っ盛りの13歳前後はだいたい明け方の4時くらいですかね。つまり、まだ日が昇ってすらいないんですよ。1日始まってすらいないんです。もう今日1日、この先おしまいだとか言うような時間じゃない。そして、思春期の不安定さは夢うつつに似ています。つまり、思春期特有のギスギスして相互監視じみた人間関係のせいで、ウザいだの空気が読めないだのと言われて疎外された経験は寝ぼけまなこに写った悪夢みたいなものです。たかが明け方の悪夢くらいで、しばらくは寝覚めが悪いにしても、1日引きずったり、1日の全てを台無しにされたりはしないでしょう。所詮は夢です。現実世界には干渉できない。それと同じです。決してその先の人生をも悲観するほどではないのです。

 

 今でこそ、所属大学というメインコミュニティーの壁や年齢の壁を越えてアルバイト先や他大学といった学外の世界で少人数ながら心地よい人間関係を築き、いろんなコミュニティーによりどころがあるという安心感に喜びを感じられるわけですが、思春期の「寝ぼけまなこ」状態ではどうしても視野狭窄に陥りがちで、学校で居場所がなければいけないとかいつも大勢の仲間と賑やかに楽しくしていなければいけないといった強迫観念に縛られがちだと思うのです(自分がそうだったから、というだけの乱暴な理論ですが・・・)。だからこそ、広い世界を知っている大人には、そして社会には、「悪夢」から子供の「目を覚まして」あげる役割が求められるんじゃないでしょうか。クラスや学校に馴染めないのは決して恥ずかしいことではないと伝え、それが学内であろうと学外であろうと、生きづらさを抱えている子供が心から笑って、いきいきとしていられる居場所を提供していくとか。

 

 孤立していた当時は通学途中の電車で見る、友人同士連れだっている全ての人々にいら立ったりもしましたが(とても理不尽ですね・・・)、街を歩けば「ひとり」を愉しんでいる人たちをたくさん見ます。思春期には「ひとりでいること」が何故かとても恥ずかしいことのように感じられがちですが、「ひとり」も悪くないものだぞ、と当時の私には伝えたいです。

 

 時間かけた割に脈絡のない文章になってしまいましたが、当エントリーもまた、今まさに思春期という悪夢にうなされている子供たちを優しく起こす一助になっていれば幸いです。

おでこが出ちゃったばっかりに。

2月が逃げて、3月がやってきた。正直月日の経つスピードに心も体も追いつかない。というよりも、精神の乱れに振り回されているうちに2月が終わってしまったという感じで、非常にもったいない。

就職活動のためいろいろな場所に出かけて行って忙しく動いている圧倒的多数の同期の近況報告を目にするたび、遮光カーテンを引いたままの自室に閉じこもってろくすっぽ回らぬ頭で文献を読み進めては気分がふさぎ、ベッドに横になるという、何一つ生産性のない動作を繰り返している自分がなんだかとんでもない道楽者ニートのように思えてしまってひどく落ち込んだりもした。また、進学という、敢えて新卒カードを捨ててまである意味「危ない」選択をしているからには学業成績や卒業研究などできちんと結果を出さなければという重圧、そもそも院試や選抜に落ちてしまったら大変なことになるだろうという恐怖に潰され、場所を選ばない突発的な腹痛や1時間ほど続く金縛りといった身体的不調にも悩まされた。

そんなわけで、ひとつきの8割くらいを棒に振ってしまったわけだが、ちょうど月の変わり目に差し掛かるころ、ある考えが頭に浮かび、大いに自分を救うことができた。それは、簡単に言えば、「『今』あることだけに目を向け、『今』やるべきことだけをやる」ということだ。

そもそも将来起こりうる事象を想定して期待したり失望したりする生き物は、世界広しといえども我々人間くらいだ。前頭葉という、脳の前部に位置し、「現在の行動によって生じる未来における結果の認知や、より良い行動の選択」(wikipediaより)に関する能力を司る部位が発達しているために人間の額は前方に飛び出した形となり、他の大多数の動物に比べて「この先」を考える能力に長けているからこそ、将来への不安を抱きやすいのだ、と聞いたことがある。飼っている犬なんかを観察していると、本当にその通りだと思える。彼らに見えているのは、喰らい、殖やして「今を生きる」ことだけである。その証拠に、その目は常に生への渇望に満ち、輝きを失っていない。明日の外敵の襲来や天候不順による飢えに絶望して生きることに無気力になったりはしない。

人間も結局のところ動物である。だから、思索の罠にハマったときこそ、一旦原点に戻る、つまり「今を生きる」という「動物的生き方に学ぶ」ことが必要なのではないか。そのために私がとった具体的行動は以下の通り。

・不安である気持ちをまず受け入れる

「今を生きる」のに「今」の気持ちを否定してしまっては始まらない。そもそも人間の状態なんて一定じゃないんだから未来には変わっているかもしれないしとりあえず「今は」そのままにしておく。

・今ある客観的事実だけを書き出す

一度不安を覚えるとあれこれとありもしない最悪な未来予想図が浮かんできてますます実体のない恐怖に完全に絡めとられるという悪循環に陥ってしまうが、これは感情によって事実の認識に歪みが生じてしまっている故であろう。そこで、今「実際に」起こっていること、存在していることだけを可視化してみるのである。この段階で絶対に守らねばならないのは、自分の感情、自分の考えに基づく予測といった要因の一切を排除することである。「これは~かもしれない」ではなく「これは~である」のみに目を向けるのだ。そうすると、現れてくる内容は意外にも少なく、いかに人間が感情に支配されがちかに気づき、自ずと「今」何をすべきかが見えてくるはずである。

・自分の選択を信じる

それが多数派であれ少数派であれ、今どの選択をしたところで未来に自分がどうなっているかなんて誰にもわからない。大まかな予測があるとはいえそれが絶対に正しい保証もない。この選択をすれば将来幸福になれて、あの選択をすれば不幸になるなどと断言することもできない。我々にできるのは、他人の言説に惑わされず、自分がゆく道で「今」やるべきことをただこなす、ということだけである。

お稲荷さんのいましめ

人間関係で心の晴れない出来事が続いたため、先日同じく様々な種類の人間関係上のトラブルが続き萎えていた友人とともにお互いの悪運、悪縁を払拭すべく縁切寺として有名な豊川稲荷東京別院に参拝した。

参拝を終えておしゃれなカフェで一息ついていたとき、私はついその場の勢いで、一度会っただけの人についての愚痴を長々とこぼし続けた。それも事実に基づくことではなく、あることないこと、カフェ全体を包む穏やかな雰囲気にはとてもそぐわないような汚い言葉で。もしかしたら愚痴というよりむしろ個人攻撃に近かったかもしれない。とにかく私はあらん限りの罵詈雑言で攻撃する快感に酔いしれていた。とくに危害を加えられたわけでもないのに。ろくにその人を知りもしないくせに。罪悪感を覚えながらも、私は攻撃をやめなかった。

それから3日くらいあと、ひどい喉の痛みで早朝に目が覚めた。すぐ直るだろうと楽観視し二度寝してゆっくり起きだすもまだ痛い。結局その日一日はトローチや風邪薬の奮闘も空しく、ずっと喉が痛かった。それどころか、体はだるいのに眠ることもままならないほどに痛みは激しくなっていた。なにせ唾を飲むだけで喉全体に文字通り目の覚めるような痛みが広がっていくのだから。

布団に入っても3時間ごとに痛みで目が覚め、関節も痛み出しさすがにおかしいと翌日病院に行くと喉がたいへん腫れていて熱が38度あることが判明。検査したところ幸いにもインフルエンザではなかったがしんどいのには変わりはない。寒空の下、重い足取りで帰宅し、処方された薬を飲んで寝ようと試みたものの現代医学だって魔法じゃない。薬を口にしたその瞬間に瞬時に喉の痛みが引いていくわけもなく、相変わらず続く破壊力の強い痛みに苦しめられ、完全に寝付くまで数時間を要した。

夜7時に起きると薬が効いたのか喉の痛みも常識的なものとなり熱は下がっていたが、声がおかしくなっていた。声のボリュームが上げられない。2日ほどはかすれた遠い声でしゃべる羽目になり、かすれ声が治ったかと思えば今度は鼻が詰まって3日ほど鼻声になってしまうしでしばらくは散々であった。

今思うと、あれはお稲荷さんからの戒めだったように感じられる。無意味に人の悪口ばかり言う口はしばらく使い物にならなくしてやるぞ、という威厳のあるお稲荷さんの声が聞こえてくるような気がした。科学的に考えれば「人混みかどこかで拾ってきたウイルスだか細菌だかの感染で感冒症状を示したイコール体調を崩した」までなのだが、そんな簡単に片づけたくない気持ちだ。

人付き合いの中では合う合わない、好き嫌いの問題は必ず出てくるし、それがごく自然なことだ。だから、どんな人でも皆から好かれるということはないし、逆に皆から嫌われるということもない。すべての人を愛そうと、またすべての人から愛されようと努力する必要もない。今日もどこかで誰かが誰かの愚痴をこぼし、誰かが誰かに愚痴をこぼされている。私だって誰かの愚痴をこぼすし、誰かに愚痴をこぼされているかもしれない。でも私はそれを否定しない。なぜならそれが人間のあるべき姿だからだ。

ただ、ここで大切なのは、それを攻撃に転じさせない姿勢なのだと思う。人間誰もが攻撃性を心に秘めており、攻撃の快感に目覚めうる。人間は気持ちいいことが大好きなので、悪口という名の攻撃に莫大な時間を割くことになる。聞いている方はおろか言っている方さえも気分が悪くなるし、なにより自分の時間が失われていくし、かなりもったいないことではないか。

合わない人には、「困ったものだねえ」と大人の対応をして、何も言わず距離を置く。すぱっと切り替えて、自分のことに集中する。この方が楽しいんじゃないかなあと思うわけです。

反省を込めて。

ごあいさつ

アカウントを作って放置すること約3か月。ようやく書きたいことがなんとなーく頭の中に浮かんできたので書いてみようかと思ったものの、いきなり書くのもアレなのでひとつ自己紹介を。

名前はふわとら、都内の某大学の3年生です。そのうち専攻の話とかもするかも?

ブログ名通り、思ったことなどゆるく書き綴っていきます。